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伊那谷の城跡(2) 殿島城、藤沢城

殿島城

今回は、住宅地の奥にひっそりと佇む「殿島城」をご紹介します。

「殿島城」は、伊那谷を南北に貫く天竜川の左岸に形成された河岸段丘を利用して築かれた平山城です。
南北に連なる段丘の西端に本丸を置き、北-東-南の三方を空堀で囲み、更にその南側に二の丸を配置した梯郭式の縄張りを持ちます。

城跡は、現在、本丸を囲む土塁とその周囲の堀が残され、本丸内は「殿島城址公園」として整備されています。

殿島城址公園入り口を東側からみたところ

人通りの少ない閑静な住宅街を抜けた先に、四方を高い土塁に囲まれた城跡がポッと現れる光景は、タイムスリップして時間の狭間に放り込まれたような、ちょっと不思議な感じを受けます。

公園入り口の門

本丸のかつての虎口には疑似門と石垣が公園整備の際に設けられています。公園の出入りは自由です。

公園入り口を挟んで高い土塁が残る

本丸は東西80メートル、南北110メートルの矩形で、全周を土塁が囲み、東と南に虎口が開く構造となっています。
特に東側には、先ほど通ってきた門を挟む形で左右に高さ3、4メートルほどの土塁が明確に残り往時を偲ばせます。

「春日城址」二の丸から本丸に通じる橋

本丸を囲む空堀は、樹木に覆われて分かりづらいですが、深く掘り切られ底部が鋭角になっていることが見て取れます。
かつては本丸を囲むように何重もの空堀が配置され、弱点となる北側から東側にかけて厳重な防御を行っていたようです。

残念ながら、それらの堀跡は、現在農地や宅地に姿を変えていて、往時の様子は想像するしかありません。

殿島城が築城された年代は明確ではないようですが、伊那谷の城巡り第一弾で紹介した「春日城」と同時期(天文年間頃)であろうとされています。

この時期は甲斐の武田勢が伊那谷に侵攻して在地の豪族と争っていた時期であり、殿島城も先に述べたような厳重な防御を施して武田勢に備えていたものと思われます。

西側に遠望される中央アルプスの峰

本丸に立って、西側を望むと木立の向こう側に薄い雪をまとった中央アルプスの山並みが望まれます。

かつては樹木が払われていて、本丸からは天竜川とその間に広がる村落の様子が手に取るように俯瞰できたことでしょう。
軍事的要衝に築かれた殿島城からは、この城にこもった武将たちが強い緊張感のなかで日々を過ごしていた姿が想像されます。

南側虎口から見える風景

本丸を抜けて南側の虎口に向かうと、土塁の間からは住宅がすぐそこに見えます。
秋のうららかな陽射しに明るく佇むその景色は、戦国時代から現代に再び戻るための出口であるかのようです。

殿島城址公園へのアクセス

クルマを利用されない場合、城跡まではJR飯田線沢渡駅が最寄り駅となります。
駅からは天竜川を渡り、東に歩いて30分ほどかかります。
この時期ならではの紅葉をのんびりと楽しみながら訪れることをお勧めします。

藤沢城

東京と長野県の伊那谷を結ぶ主要な道路といえば、今では中央自動車道が思い浮かびます。
中央自動車道は、東京都の高井戸ICから諏訪湖西の岡谷JCTを経由して伊那谷へ南下するルートをとっています。

しかし、江戸時代には日本橋と甲府を結ぶ甲州街道を経て諏訪と伊那の境にある杖突(つえつき)峠を越え、現在の伊那市高遠を経由して直接伊那へ抜ける街道が整備されていました。

杖突峠から伊那に抜ける道を杖突街道といいます。

杖突街道は杖突峠から高遠を経て、伊那部宿で天竜川沿いに南北に延びる三州街道(伊那街道)に合流しました。
三州街道は信州と三河地方を結ぶ当時の重要な物流ルートでしたから、東の甲州街道と西の三州街道を結ぶ杖突街道は江戸時代以前から重要な交通路となっていたことが窺えます。
また、杖突街道は江戸時代に伊那を治めていた高遠藩により参勤交代にも利用されました(ちなみに、現在の新宿御苑は高遠藩主内藤家の屋敷があった場所を公園に整備したものです)。

前置きが長くなりましたが、伊那市高遠の御堂外垣(みどがいと)地区に残る「藤沢城」をご紹介します。

藤沢城は、標高1,032メートルの蛇山(じゃやま)を利用して築かれた山城です。
クルマで高遠の市街地から杖突峠に向かって藤沢川沿いに進むと、左手にぽっこりとした山が見えてきます。

杖突街道から望む藤沢城跡

登城口は、集落の途中、道路の左側に「←藤沢城跡」の標識が設けられているためすぐに分かります。

藤沢城跡入り口の柵には看板が

クルマを降り、藤沢川に下る道を徒歩で辿ると小さな川を跨ぐコンクリート橋の向こうに針金で組まれた柵が見えます。
「ドアを開けたら必ず閉めてください。」の看板に和みますが、柵を開けずとも左側に隙間があるのでそこを通過すれば「入城」できます。

藤沢城跡の上り坂の起点

しばらく草地を進むといよいよ上り坂にかかりますが、ここにも案内標識があるので迷うことはありません。

山頂に至る狭い山道は落ち葉が散り敷いて静か

城の主要部は標高1,032メートルの山頂にありますが、この場所からの比高は90メートルくらいとされています。このため、実際に山道を登るのにかかる時間は10~15分程度ですみます。
当日はあいにくの雨模様でしたが、新緑の林に囲まれた山道は雨もかからず、静寂に包まれて気持ちのよい散策路となっていました。

尾根の先にも案内の標識が見える

急な斜面を九十九折りの道にそってゆっくりのぼると、やがて尾根の途中にでます。ここを左に進めば、城の主要部に至ります。

尾根に残る堀切と土橋、土塁の痕跡

人が一人通れるような細い尾根道を進んでいくと主郭に通じる屈曲した道が現れ、やがて山頂にでることができます。

山頂についたときは、ちょうど雨もあがって、四方に遮るもののない気持ちのよい展望を得ることができました。
誰が建てたものか東の隅に小さな石の祠があり、その向こうに伊那と諏訪を区切る杖突峠の鞍部が見えました。

山頂の祠と、その奥に見える杖突峠
説明板には、往時の城の縄張り図が見られる

主郭には藤沢城跡の説明板が伊那市によって設置されています。

藤沢城は、杖突街道という交通の要衝に位置することから戦国時代以前には築城されていたと推定されますが、詳しい来歴は明確でないようです。
山上の施設は山の尾根に数条の空堀を切り、いくつかの曲輪をつなげた連郭式の縄張りとなっていますが、堀切りの幅、深さ、それぞれの曲輪の大きさは小規模なものです。

これらは有事に籠もって戦うには心許ないもので、どちらかというと杖突街道を監視する目的で兵を配置しておくために利用されたものと思われます。
説明板にもある通り山麓に根小屋(ねごや)と呼ばれる区画が別にあり本丸、二の丸等の記載があることから、常時はそちらが城主の居住する主要な施設であったのでしょう。

山頂からは眼下に集落を貫く杖突街道が一望でき、ここが街道の監視拠点として絶好の場所であったことが実感できます。

山頂から杖突街道を望む。右手奥の谷筋は高遠城に通じる

藤沢城址へのアクセス

クルマを利用される場合は、中央道諏訪ICから高遠方面に向かうか、中央道伊那ICから国道361号線経由で諏訪・茅野方面に向かいます。
クルマを利用されない場合は、城跡まではJR飯田線を利用し高遠駅前からJRバスで伊那藤沢バス停が利用できます。


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